4.あとは時間の問題でしょう
こんな現実も、「再考」ブログの制作者は「知っている」のでしょうが、臆面もなく、こう言っています。
親鸞会の方々に質問したいと思います。
これら善知識方のなされたことを見るに、御本尊は、木像や絵像でも差し支えないと思われるのですがいかがでしょうか。
(「再考」ブログ 最後に より)
「善知識方は、御本尊は名号が『一番良い』と教え勧められました」
と断言している同じ人間の口から、どうしてこんな「珍問」が出てくるのか、理解に苦しみます。
山科本願寺に木像本尊を据えられた蓮如上人や、形像本尊を下付された覚如上人は大間違い者だと言われるのでしょうか。
(「再考」ブログ 最後に より)
にも、お答えしておきましょう。
「現代の教学問題」に、「そのようなこと」をあれこれ述べて、「だから御本尊はどれでもよいのだ」と結論づけていた本願寺さんが、11年後、自らの機関紙に、その主張をかなぐりすてて、
「浄土真宗は南無阿弥陀仏にはじまり、南無阿弥陀仏に終わる宗旨であるといってよい」
「一般に本尊といえば、形にあらわした形像本尊が中心、それ以外は考えられなかった。しかし、親鸞聖人は名号をもってご本尊にされた。この意義は大変大きなものがある」
「親鸞聖人が名号本尊にされたのは、み教えの本質にかかわる理由があった」
と訂正されたことは、先にお話ししました。
どうしても聞きたければ、同じ質問を、「本願寺新報」の発行責任者にしてみるか、あるいは、こう書いている、龍谷大学名誉教授、千葉乗隆氏にお尋ねしてみたらよいでしょう。
「親鸞は、造形の阿弥陀仏が人びとを芸術的美の世界にとどめ、宗教的真実の境地に到達させ得ないことを考慮して、美を媒介としてではなく、宗教の本質そのものを直接に人びとに示そうとして、名号を本尊とした」 (図解雑学「浄土真宗」)
本願寺さんの「本音」や「実態」はどうあれ、「真宗本尊論」の、「教義上」の決着は、すでについていることなのです。まともな学者さんなら、分かっていることです。あなたが知らないだけです。
あとは、本願寺自身が、どのようにして「親鸞聖人の教え」の通りにしたがってゆくか。
「実態」を「正しい教義」に合わせてゆくか、どうかにかかっているのです。
「浄土真宗の正しい御本尊は御名号である」
「それなのに、本願寺はじめ末寺は、いまだに木像本尊に固執している」
この現実をどうするか。
要は、本願寺のメンツと、時間の問題ということでしょう。
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