5.名号本尊と教義安心の関係

※「どちらがウソか」(増補版)より引用

 では、親鸞聖人や蓮如上人はなぜ名号本尊をもって、浄土真宗の正しい御本尊と御教示になったのか。

 その御本尊と浄土真宗の教義安心との関係を、明らかにしておきましょう。

 当然のことながら、教義安心と無関係な御本尊はありえません。真宗においては、その関係は特に顕著であります。

「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、

  如来の教法をわれも信じ、

   人にも教え聞かしむるばかりなり」

の仰せにも明らかなように、親鸞聖人の教えは常に釈迦の教法でありました。

 一口に釈迦の教法といいましても、それは膨大な一切経であります。

 幾度も一切経を読破なされた親鸞聖人は、

「それ真実の教を顕さば、則ち、大無量寿経これなり」(教行信証)

 釈迦の真意が説かれているのは、『大無量寿経』のみだと喝破なされています。

浄土真宗の至極は願成就文

『大無量寿経』には、阿弥陀仏の本願が説かれていますが、

親鸞聖人は、

「横超とは即ち、

  願成就一実円満之真教真宗是れなり」(教行信証)

と仰有って、願成就文の教え以外に、浄土真宗の教義も安心もないことを明示なされています。

 浄土真宗の根本聖典は『教行信証』六巻でありますが、その眼目は『信巻』上下二巻にあります。

 その『信巻』上下二巻は、願成就文を詳細に解説せられたものです。

 されば願成就文の教え以外に、浄土真宗の教義も安心もありませんから、覚如上人は、

「それについて三経の安心あり。
 その中に大経をもって真実とせらる。
  大経の中には第十八の願をもって本とす。
   十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」(改邪鈔)

と教えられ、本願は本ではあるがいまだ至極ではない。

 浄土真宗の至極は願成就の教えにあることを、明白になされています。

 よって『改邪鈔』には、次のように断言なされています。

「かの心行を獲得せんこと
  念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす、
   この外未だ聞かず」

 願成就文の教え以外に、覚如は真宗の教えを聞いたことがないとまで仰有っています。

親鸞聖人のみの達見

 浄土真宗の教義安心の至極である願成就文には、

「聞其名号信心歓喜乃至一念」

と教えられ、所信の体は名号であることが、明らかになっております。

 勿論、所信の体以外に御本尊はありえませんから、かかる願成就文の教義安心から、親鸞聖人は名号ばかりを御本尊とせられたのであります。

 しかも、願成就文を教義安心の至極とせられたのは、親鸞聖人のみの達見でありましたから、名号を本尊とせられたのは、親鸞聖人が最初であったのです。

 故に、蓮如上人は、

「浄土真宗においては、木像よりは絵像、絵像よりは名号を本尊にせよ」

と御教示になったのであります。

 かかる浄土真宗の教義安心の至極である願成就文の立場からは、木像でも絵像でも名号でも同じだから、どれを本尊にしてもよろしいなどとは、断じて許容さるべきことではないのです。

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